連載第1回
 この就任講義について
 1. 何をことばの研究の目的とするのか
 2. 生成文法の考え方

 −−質疑応答
連載第2回
 3. 文法というメカニズムの存在の可能性について
  3.1. 両眼視差とステレオグラム

連載第3回
  3.2. 文法に関する仮説の検証方法の特異な点
連載第4回
 4. 文法というメカニズムの存在の証明を目指して
  4.1. 一致現象
  4.2. ことばとことばの関係--連繋
  4.3. 連動読み

連載第5回
  4.4. 説明対象の限定の仕方はいかにあるべきか
 5. 終わりに


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「いかにして理論言語学は経験科学たりえるか」
第4回
4. 文法というメカニズムの存在の証明を目指して

 次は(7d)である。

(7) d. そもそも文法の存在を証明することは可能なのか。存在しない可能性のあるものを仮定して研究を進めることは無意味ではないのか。

これは、生成文法の大前提を批判しているように見えるが、実は少し誤解がある。生成文法は、(4)のようなメカニズムの存在を前提とした上で成り立つ学問というよりは、むしろ、本来(4)のようなメカニズムの存在を示すことを目的とした学問なのである[注4]。存在を示すと言っても、言語学は大脳生理学ではないので、脳の一部を切り出そうとするわけではない。そのようなメカニズムの存在を仮定しなければ納得できない現象があるということを示すこと、そして、そのメカニズムが具体的にどのようなものであるかを示すことによって、その存在を主張しようとするものである[注5]。そうなると、生成文法でまず扱われるべき現象というものは、非常に限られることになる。単に、文法というメカニズムに関連している現象というだけでなく、文法というものを仮定しなければ説明できない現象から始めなければならないからである。
 (7e)の指摘についても、これと関連している。

(7) e. 生成文法は、言語全体を見ようとしていない。都合のいい現象だけを選んで「美しい理論」を作ることを目指しているように思われる。説明できないことを次々に対象外に追いやって、「美しい理論」を作っても意味がないのではないか。

もともと、ことばに関すること全般を射程に入れては科学的アプローチができないというところが出発点であり、科学的に追及できる側面をより出して対象にするのが生成文法なのであるから、扱えない事柄が多くても当然である。したがって、扱う現象を限ろうとすることそのものは批判の対象とみなされるべきではない。
 また、混沌とした世界の中から純粋な計算機構から生まれた側面を取り出すことが目的であるとしたら、結果的に提案される分析としてすっきりしたものを期待するのは当然であって、複雑すぎてよくわからない分析しか出てこないということは、対象の切り取り方を間違ったということを意味している。したがって、対象を限った結果、すっきりした分析が可能になるということそのものも批判の対象にされるべきではない。
 しかし、何を対象とするべきであり何を対象とするべきでないのかという問題は、もちろん存在する。その選択が恣意的に見えるならば、(7e)のような疑問が出ても当然であろう。まず、どのような現象が取り上げられるべきかということについて私の考えを述べておく。

[注4] 実際の1つ1つの研究の中には、メカニズムの存在を前提としなければ成り立たないものもあるが、生成文法全体としては、文法というものの存在証明を目標としていると考えている。
[注5] ここでも、ステレオグラムの例になぞられて考えてよい。

4.1. 一致現象
 もし、(13)のようなアプローチを取ることができれば、文法というメカニズムの存在証明のためには一番近道かもしれない。

(13)  ことばの性質の中で、伝達という目的とは直接関係のない現象に注目して、その現象を生み出すメカニズムを考察する。

伝達という側面から見て情報量がないにもかかわらず常に(もしくは、ある条件下で)存在する現象があったとすると、それは、伝達とは独立のメカニズムの産物である可能性が高くなる。そうすると、そういう現象を生み出すメカニズムを構築していくことによって文法というメカニズムの一端が見えてくることになる。
 この観点から、特に90年代以降、チョムスキーが最も注目してきたのは、一致という現象であった。

(14) a. I am a student.
   b. He is a student.
   c. *He am a student.
   d. *I is a student.

例えば英語の場合、(14)でbe動詞の形が am であるか is であるかという違いは情報伝達という側面から見ると、まったく意味を持っていないと言ってよい。「ひとごとではない、というニュアンスをこめて(14c)のように言う」ということもなければ、「自分を客観的に見て(14d)のように言う」ということもない。つまり、一致は純粋に文法の問題であり、だからこそ、チョムスキーは、一致現象に注目して、文法というメカニズムの存在を証明し、その姿を浮き彫りにしようとしているのである。
 では、日本語の場合、(14)のような一致の現象があるだろうか。たとえば、敬語というものが一種の一致現象ではないかと言われることがある。確かに次の例を見れば、そういうふうに見えるかもしれない。

(15) a. 社長がいらっしゃった。
   b. 私が参ります。

しかし、「社長」という言葉を使っていてもその人物に敬意を払っていない場合には敬語を使うとは限らないし、社外の人に話す場合には当然「社長が参ります」となる。さすがに「私がいらっしゃった」という表現は冗談にしか使われないかもしれないが、冗談としては可能であるという点でも "*I is a student." などとは異なっている。
 日本語においては、まったく「伝達意図」をもたないような現象というものは、少なくとも英語ほど明示的には存在していないのではないか。そうだとすると、日本語では(13)のアプローチをとることが難しいということになる[注6]

[注6] 英語の観察によって得られた結果と日本語の観察が何らかの意味において矛盾しないということを示すことによって間接的に文法という仕組みの存在の主張の一部とすることを目指す方向性もあるだろう。しかし、英語における観察とは独立に、ことばとことばの関係が存在する証拠と文法の性質を日本語で示せたとしたら、さらに、文法という仕組みの存在の必要性が主張できることになるはずである。


4.2. ことばとことばの関係--連繋
 (13)のアプローチが難しいとなると、次の候補となるのが(16)である。

(16)  他の語と関係を持つことによってはじめて生まれる「意味」に注目して、その関係を生み出すメカニズムを考察する。

多くの語の場合、他の語と関係なく、その語単独で「意味」が持てる。例えば、「ネコ」「ふろ」「めし」「寝る」など。しかし、もし(16)のような語があれば、それは、ことばとことばの関係にもとづいて生まれている「意味」ということになり、まさに、単語から文を作り出す過程でもたらされている「意味」、つまり、文法というメカニズムが作り出している「意味」ということになる。
 そこで、いわゆる「コソアド」の指示表現、特に、ソ系列とア系列の違いに注目したい。一般的には、ソ系列が「聞き手に近いもの」を指し、ア系列が「話し手からも聞き手からも遠いもの」を指すとされている。しかし、もちろんのことながら、これはその場で見えるものを指す場合のことである。(17)の例に示されるように、ソ系列にせよ、ア系列にせよ、その場で見えない人/物を指すことができる。

(17) A: 昨日 山田に会ったよ。
   B: そう。 あいつ 元気だった?
   C: その人、Bくんの同級生?

 しかし、対象となるものが現場にはなく、かつ、その前に何も文が発せられていない場合、ア系列は使える時もあるが、ソ系列を使うことはできない[注7]

(18) (状況:一人の刑事が犯人を追って、あるアパートの部屋の前に来る。タイミングを見て、一気に踏み込むが、そこには犯人は見当たらず、単に男達がマージャンをしている。刑事は、この男達が犯人をかくまっているに違いないと思って叫ぶ。)
   刑事:{あいつ/#そいつ}はどこだ?

ただし、(18)でソ系列指示詞が使えないと言っても、文そのものが非文というわけではない。同じ文でも、次のように別の文脈ならば、ごく自然に使えるのである。

(19) 刑事1:今さっき警官があの封筒を届けると言って持っていきましたよ。
  (刑事2は、それが誰なのか見当がつかないが、あわてて。)
   刑事2:{そいつ/#あいつ}はどこだ!

次の例も同様である。

(20) (状況:昨日、陽子は正男に手作りのケーキをあげた。陽子は、正男の反応が気になるので、電話をかけて、開口一番に聞く。)
   陽子:ねえねえ、{あれ/#それ}、食べた?

(21) 正男:この前、高校生からチョコレートもらっちゃったよ。
  (陽子は、そのチョコレートを見ていない。)
   陽子:ねえねえ、{それ/#あれ}、食べた?

(22) (状況:昨日面会に来た学生の名前が思い出せない教授が秘書に内線電話をかけ尋ねる。)
   教授:昨日来た{あの/#その}学生、名前 何だった?

(23) 秘書:昨日、学生さんが1時間以上、お帰りを待っていたようでした。
  (教授は、その学生が誰なのかわからない。)
   教授:昨日来た{その/#あの}学生、名前 何だった?

ここで注意してほしいのは、ソ系列指示詞が使えるかどうかは聞き手が指示表現の内容を推定できるかどうかで決まっているわけではないということである。上で示した例文の状況でも、聞き手が話し手の意図を察する可能性は十分にあり、だからこそア系列指示詞も容認可能なわけであるが、それにもかかわらずソ系列指示詞が使えないということが重要なのである。つまり、ソ系列指示詞は、対象物が見えない場合には、原則的に必ず言語的な先行詞が必要な語なのであり、その意味で、(16)のアプローチが適用できる語だと考えてよい。

(24)  ソ系列指示詞は、その場に対象物がない場合には、他のことばと言語的関係(連繋)を持つことによってはじめて解釈可能になる。

言いかえれば、上の例文でソ系列指示詞が使えなかったのは、解釈のために必要な連繋が成り立ってないため、ということになる。
 これに対して、ア系列指示詞はどうだろうか。上の例でア系列指示詞が使える場合と使えない場合との違いの鍵になっているのは、話し手が、その対象となっている人/物を直接に知っているかどうかということである。つまり、ア系列指示詞というのは、話し手がその対象物を直接体験を通じて知っている時にのみ使うことができるということになり、解釈可能かどうかは、「先行詞」の有無(つまり、連繋の有無)とは無関係である[注8]。その点で、ソ系列指示詞の場合とは大きく異なっている。

[注7] 以下の例文では、(非文ではないが)当該文脈において容認可能性の低い文に「#」をつけることにする。
[注8] ア系列指示詞のこのようなとらえ方は、Kuroda 1979, Takubo & Kinsui 1997 によっている。ア系列指示詞は、それそのものが対象物を独立に指示するものであり、他のことばと連繋を持つ必要がない。ただし、ア系列指示詞が他のことばと連繋をもつことができないかどうかは、また別の問題であるが、ここでは紙幅の都合上、その問題にふれない。


4.3. 連動読み
 上の例でソ系列指示詞が使えないのは非常にはっきりとした感覚であるが、そこで示したように、言語的な先行詞があれば容認可能な文になり、文自体が非文というわけではない。文というものを生み出すメカニズムの構造を考えるためには、文脈と関係なく、1つの文で文法性の判断ができる現象の方が望ましい。実は、ソ系列指示詞は、連繋を持ってはじめて解釈可能になる語であるからこそ、「先行詞」によっては特殊な解釈を持つことがある。たとえば、(25)と(26)を比べてみてほしい。それぞれ、ソ系列指示詞とその先行詞に下線が付してある。

(25) a. 自民党の党員は、そこが一番だと思って党員になっているに違いない。
   b. 甲子園には、そこを本拠地とする球団がある。
   c. あの大臣の出身県の職員はみな、その県の条例に十分通じているらしい。

(26) a. どの政党の党員もそこが一番だと思って党員になっているに違いない。
   b. 甲子園も東京ドームも、そこを本拠地とする球団がある。
   c. どの県の職員がその県の条例に一番通じているか、競い合ってみましょう。

(25)のソ系列指示詞は一つのものを指しているのに対して、(26)のソ系列指示詞は、値が一つに決まっているわけではない。たとえば、(26a)ならば、「A政党の党員はA政党が一番だと思って党員になっているに違いないし、B政党の党員はB政党が一番だと思って党員になっているに違いないし、C政党の...」という意味であり、「そこ」に相当する部分は、それぞれ、先行詞の部分の解釈と連動して値が変わっていく。このような読みを連動読みと呼ぶことにしよう。(26a)も(26b)も、文脈上、「そこ」の先行詞は下線部だと解釈しないと不自然なので、結果的に連動読みが一番自然な解釈となる。(26c)の場合は、「その県」がどこか特定の県を指していると考えても文脈としては成り立つので、連動読み以外の解釈もありうるが、「その県」の先行詞が下線部だとすると、連動読みにしかならない。
 これに対して、ア系列指示詞の場合は連動読みができない。

(27) a. *どの政党の党員もあそこが一番だと思って党員になっているに違いない。
   b. *甲子園も東京ドームも、あそこを本拠地とする球団がある。
   c. *どの県の職員があの県の条例に一番通じているか、競い合ってみましょう。

(27a,b)は、連動読み以外の解釈が不自然な状況を述べているので、ア系列指示詞を使うことによって、非常に解釈しづらい文になってしまう。(27c)は、連動読みでない解釈ならば問題ないが、「A県の職員がA県の条例、B県の職員がB県の条例」という連動読みが不可能であることは明らかであろう。
 しかし、ソ系列指示詞を用いたからといって、どのような場合でも連動読みができるわけではない。

(28) a. *そこが一番だと思っている人は、どの政党も応援するものだ。
  cf. okどの政党も、そこが一番だと思っている人が応援するものだ。
   b. *多くの観客が甲子園にも東京ドームにも押し寄せたため、そこが満員になってしまった。
   c. *その県の職員がどの県の条例に一番通じているか、競い合ってみましょう。

連動読みができない理由が文法以外のことで説明できる場合もあるであろう。しかし、そのようなものを取り除いていった結果残ったものは、文法が連繋の成立を許さないために連動読みができないという可能性がある。そのようにして明らかになった連繋の成立条件が文の構造に基づいたものであるならば、連繋の成立に文法というメカニズムが深く関与しているということ、ひいては文法というメカニズムが文の生成に関わっていることに対する論拠となるだろうと考えている。
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