3.2. 文法に関する仮説の検証方法の特異な点
ただし、そうなると(7c)が問題となる。
(7) c. 生成文法の論文で用いられている例文の判断が筆者と一致したためしがない。回りの人に聞いてみても、みんな判断が様々である。筆者の都合のいいようにでっちあげているのではないか。
もし、文法のメカニズムも両眼視差から距離を出すメカニズムと同じく純粋な計算機構であるとするならば、分析の予測を実際の感覚と照らし合わせることは必須であるし、事実によって検証されない分析は却下されるべきである。
しかし、ここで問題となるのは、文法のメカニズムを検証する場合の「事実/実際の感覚」とは何を指すのかということである。上でも述べたように、生成文法の対象となっているのは「文法性」という感覚であるが、ともすれば、これは「普通に使える/普通には使えない」という区別と混同しがちであり、そのため、「不自然な適格文」と「不自然な非文」の違いが曖昧になってしまうことが多いのである。ただし、誰にとっても曖昧模糊としているというわけではなく、一般的に文の文法性に注意を払ってきた人ほど、その違いが明確に感じられるという傾向は存在すると思う。ステレオグラムでも、少し練習をしないと立体視は難しいし、人によって得手不得手があることになぞらえてもいいかもしれない[注2]。
ただ、こうなると、予測と異なる結果が出た場合に、それが分析が間違っているせいなのか被験者がつたないせいなのかわからないということになり、非常に深刻な問題となる。文法以外の要因に左右された反応まで考慮に入れようとしていては真の姿が追求できないし、かといって、自分の判断と異なる結果を却下していては仮説の検証が不可能になり、「でっちあげ」と批判されてもしょうがない。これは、まさに、経験科学として文法の研究をしていく上で命取りになりえる問題で、予測と異なる判断/反応をどのように扱っていくかという問題には真剣に取り組む必要がある。この点に関しては、私はまだ個々の事例についての対処法というレベルでしか理解できていないが、少しだけ一般的なガイドラインをあげておく。
ここで言う意味での科学において対象にするメカニズムとは、入力によって出力が決定される仕組みであると上で述べた。文法というメカニズムは、単語の集合を入力して文という構築物を出力するメカニズムである。しかし、1つの問題は、その入力を完全にコントロールすることができないということである。音としてあらわれる単語をコントロールすることは可能である。しかし、それらの単語がどのような文法素性を携えて入力となるかはコントロールできないし、音としてあらわれない要素が入力に入る場合も直接はコントロールできない。したがって、仮説を反証可能な形で提出するためには、その入力が一定になるように、様々な工夫をする必要がある。たとえば(11)は、同じ単語を使ったいくつかの文の判断を連続して聞くことによって、単語の持つ特性のぶれを少なくすることを目指したものであり、そのような工夫の一例である。
(11) 文法は、必ずしも単独の文の文法性を予測しない。文法の仮説の予測は、(なるべく)同じ単語を使ったいくつかの文の文法性のパターンとして述べた方がよい。
つまり、「AとBに差を感じるかどうか」を直接、予測の対象とするかわりに、「AとBに差を感じる場合には、CとDにも差を感じるはずである」または「AとBに差を感じる場合でも、AとCには差を感じないはずである」というような予測として出し、そのパターンが検証されるかどうかを調べていくのである。
また、文法の出力結果が別の要因によって影響を受ける場合がある。たとえば、上で述べたように、「不自然な適格文」と「不自然な非文」の違いはわかりにくい。しかし、この場合にしても、(12)のようにいくつかの文を並べて示すことによって、今注目しようとしている違いを浮き彫りにすることができる。さらに、ある文が非文であるという予測に関しては、この問題は起きないはずである[注3]。「不自然な非文」であれ「自然な(?)非文」であれ、非文である限り、私たちは「それは文として成り立たない」と感じるはずだからである。
(12) ある文が文法的であるという予測に対しては感覚(=私たちが感じる文の容認性の判断)が伴わないこともありうるが、ある文が非文法的であるという予測は感覚によって裏打ちされて初めて検証されたことになる。
このように考えると、仮説を反証可能な形で提出しようとする場合に重要なのは、カギとなる例文が非文であることだということになる。
ただし、入力のぶれの原因や出力結果に影響を与えるものは様々あり、(11)や(12)だけでは、とても十分とは言えない。ここでは詳細を述べることはできないが、まずは、対象とする現象ごとに具体的な対処法を工夫していく必要があると考えている。
[注2] 文法性判断をステレオグラムになぞえるのは、金水(2000) によっている。そもそも、3.1 節の内容も、金水(2000) に触発されたものである。
[注3] この点については、Hoji 2002 で(おそらく初めて)指摘された。
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