この「論理的な議論の構築方法について」について

連載第1回
 1. ここで目指していること
連載第2回
 2. 「論理的」とは?
  2.1. 命題
  2.2. 推論の方法
連載第3回
 3. 論理を使って考えを整理する
  3.1. 言語事実を命題でおきかえる
  3.2. 議論を作っていく
  3.3. 議論を命題でおきかえる
  3.4. まとめて書いてみる
連載第4回
 4. 結論を真実に近づけていくために
  4.1. 真であると仮定しなければならない前提をへらしていく
  4.2. チェックポイント
連載第5回
 5. 論理的であることと説得的であること

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「論理的な議論の構築方法について」
第4回
4. 結論を真実に近づけていくために
(※ 特にこの節の内容については、現在の目から見ると不満に感じる部分が多い。関連する内容に興味のある人は、ぜひ、Hoji, Hajime "Falsifiability and Repeatability in Generative Grammar: A Case Study of Anaphora and Scope Dependency in Japanese," to appear in Lingua を読んでほしい。)

4.1. 真であると仮定しなければならない前提をへらしていく

 論理的に導かれた結論が現実の世界においても正しいとはかぎらない。現実とあわないことであっても論理的に導くことは可能である。「論理的に結論を導く」ということは、いくつかの前提を仮定した上で必ず真となることを導き出すことであるが、その場合、その前提が真であるかどうかは議論の対象となっていない。原則的に、論理の世界では前提にしてはいけないものはない。したがって、現実にあわないことを前提とすれば現実にあわない結論が論理的に導かれることもある。
 しかし、私たちが分析対象としている言語というものは現実に存在しているものであり、言語学はその姿を解明することを目的としたものである。したがって、現実とあわない前提はできるだけ現実とあうものに置き換えていかなければならない。前提というものは、前提である以上、「証明されていないもの」であるから、前提がたくさんあればあるほど、解決できていない部分が多く残ることになる。もちろん、すべての前提をなくすということは不可能であるが、すべての前提が何らかの意味で「それ以上の証明が不要」となれば、それがもっとも理想的な状態となるはずである。
 言語には様々な面があるため、「それ以上の証明が不要」であるものにも様々な種類がある。上で述べたように、データの解釈には必ず何らかの前提が関与するため、データが表していることそれ自体を絶対的な真とすることはできないが、このタイプの前提は、言語事実を緻密に観察することによって限りなく「それ以上の証明が不要」である状態に近づけていくことができる。その意味で、データにもとづく結論というのは強い議論になる可能性が強い。
 また、言語の本質について考察を進めることによって「それ以上の証明が不要」になるタイプのこともある。それらのうち、どのようなものを出発点となる前提にするかということが分析の「枠組」の違いを生んでいくのだろうと思う。たとえば、チョムスキ−の生成文法の場合は(少なくとも)次のようなものを出発点としてすえている。

(23) 生成文法において「それ以上の証明が不要」な前提:
a. 文には構造がある。
b. native speakerには構造を自由に生成する力がある。
(=言語には文法がある。)
c. 子供はどんな言語の文法も習得できる。
(=すべての文法のもとは普遍文法である。)

この3つはそれぞれレベルの異なるものであるが、この3つを「証明不要」とするというのは言語に対する1つの「観点」であるから、これらが組み合わさって1つのものとならなければならない。生成文法の議論は、しばしば議論自体が複雑な構造をもっているが、それはこの目的を追求しているためだと思う。
 さて、このように、何を前提として許すかは立場によって異なるが、どういう立場であれ、言語の本質にせまっていくためには、真であると仮定しなければならない前提をできるだけ少なくしていくことが必要である。前提として仮定したことも他の前提から結論として導きだせることであるならば、証明されていない部分が減ることになる。また、(6)a の Disjunctive Syllogism を使うと、他の型よりも必要な前提を少なくすることが可能である。「if 〜 then 〜」という形の命題は絶対的に真にすることができないが、「〜 or 〜」という形の命題の場合、「x or not x」という形にすれば絶対に真になるからである。絶対的に真であることが保証されている命題ならば、推論の前提として使っても、仮の前提事項が増えるわけではないので非常に便利である。
 「x or not x」という形といっても、命題であることには変わりないので、作るときの留意点は他の命題の場合と同じである。

(24) [命題] 「この要素は、(i) Vであるか、(ii) Vでないか、どちらかである。」
(25) [命題] 「この要素は、(i) Vであるか、(ii) Aであるか、(iii) そのどちらでもないか、のいずれかである。」
(26) [?命題] 「この部分の構造は、(i) 複雑であるか、(ii) 複雑でないか、どちらかである。」

証明可能な前提があるならば、「x or not x」でない「P or Q」という形式を真であるとみなしてもかまわない。

(27) [命題] 「この移動は、(i) substitutionか、(ii) adjunctionか、どちらかである。」
[前提] 「すべての移動はsubstitutionかadjunctionかのどちらかである。」
(28) [命題] 「この要素は、binding condition の (i) A, (ii) B, (iii) C のいずれかを満たすはずである。」
[前提1] 「binding condition が適用する要素には、A・B・C のどれか1つだけが必ず適用する。」
[前提2] 「この要素には binding condition がかかるはずである。」
(29) [命題] 「これは (i) X0 か、(ii) Xmax か、どちらかである。」
[前提1] 「移動するのは X0 か Xmax だけである。」
[前提2] 「この要素は、移動によってこの位置をしめている。」

念のために良くない例もあげておく。

(30) [false] 「X が Y を c-command していないのならば、Y が X を c-commandしているはずである。」
(31) [false] 「この要素は、(i) Vであるか、(ii) 語彙範疇であるか、どちらかである。」

このようなことでも「仮定」することは自由かもしれないが、当然のことながら、偽であることが明らかな命題を推論の前提として用いることは真実の追求という点からいって望ましくない。
 このように真であると仮定しなければならない前提を少しでも減らして議論を組み立てることができれば、それだけ、その分析が真実に近づいたということができると思う。

4.2. チェックポイント

 自分の分析を改良していく場合、チェックポイントとなることをまとめておく。

(32) チェックポイント:
 a. 自分の意図したことが議論全体の結論に表されているか。
 b. 自分の扱いたかったデ−タがすべて議論に組み込まれているか。
 c. 必要な前提が落ちていないか。
 d. 減らせる前提はないか。
 e. 自分が仮定したくないと思っている前提が必要となっていないか。

さらに、論文を書くというところに、もう1つ大きな前提がかくされている。

(33)  この論文で取り上げた問題は解決しなければならないものである。

テーマを選んだ時点では「なんとなくおもしろそうだったから」というような理由しかないことがほとんどであるため、議論が必要であることを論じるのは難しいことが多い。しかし、自分が出した結論が他の分析にどのような影響を与えうるのかということを考えることは必要である。その結果が他人にとって説得的なものであるかどうかは別にしても、自分として必要性を意識しているのかどうかで、その後の発展方向が変わっていく可能性は大きいからである。