1999年の自分として思うこと

 この本を書いてからもう10年近くになります。もちろん思い出深いものですし、自分としては基本的に気に入っていますが、いろいろな問題点を見つけるたびに、気恥ずかしい思いをします。かえって、あと10年とか経てば、単になつかしくなるのかもしれません。

 この本を書く動機になったのは、「日本語を材料として、言語学の概念/考え方を伝えたい」という思いでした。その意味では、今でもある種の存在意義があるかもしれないと思っています。「とっつきやすい」「読みやすい」という感想もよくいただき、ありがたいことだと思っています。

 自分でこの原稿を授業で使っていた時には、1回の授業に1セクションをあてて、練習問題をさせていました。セクションごとに(無理にでも)練習問題をつけたのは、授業に緊張感を持たせる意味でも良かったと思います。

 ただ、章ごとに趣きが大きく異なってしまっている、という問題点は指摘されてきています。

 1章と2章は、決まった答えに導く解説型であるのに対して、3章では急に「考えて見よう」スタイルになってしまうのでとまどう、という意見がありました。1章は音韻論、2章は形態論なのに対して3章は統語論なので、内容の質として、いかんともしがたい部分はあると思うのですが、統語論でも(少なくとも部分的に)解説型を取り入れることは可能かもしれません。でも、そのためには、日本語の統語論に対する私の理解がもっと深まる必要があるでしょう。

 4章は、外国語の概説になるので、また大きく趣きが変わってしまいます。自分としては、あまり他で見かけない「企画」なので気に入っているのですが、なにしろ、自分が少しかじった外国語だけを並べているので、他の人には使いにくかったようです。

 5章は、結果的に聞きかじりの知識を短く紹介するものになってしまっています。現在ふりかえって自分として一番恥ずかしいのは、この章です。現在でも、専門でない部分の知識が深まっているわけではないので、うまく書き直せるわけではありませんが、人にこの本のことを紹介する場合、この章については「できたら読まないでね」という気持ちです。自分の専門であるチョムスキーの生成文法の考え方については、さすがに10年経つと、いろいろ思うところがありますが、これはまったく別の本で仕切り直しを目指したいと思っています。

 この本そのものは、大きな改訂をする予定はありませんが、今後の活動の参考に、またご意見をお聞かせいただければ幸いです。

1999.5.22.
上山あゆみ