ダケニとダケアッテの解釈と構造

言語学4年 橋本萌子


1. 問題提起

 

(1) a. 前評判がいい映画{だけに/だけあって}おもしろい。

  b. 前評判がいい映画{だけに/*だけあって}つまらなくて拍子抜けした。

 

 なぜ、ダケニとダケアッテにこのような違いが見られるのだろうか。

2. 提案

 (1a)の例では、原因から予測される通りの結果になっている。このような場合には、(1a)のように、ダケニもダケアッテも容認される。これに対して、(1b)の例では、現実に訪れた結果が「予測通り」であるとは言いがたい。このような場合には、ダケニが容認されるのに対してダケアッテでは容認されない。つまり、ダケニは原因に対してeventで主観的述語であれば、当然の帰結でなくてもよいが、ダケアッテは当然帰結する結果でないと容認されないということである。

 

(2)  提案する分析:

   ダケニは第2項に「結果」という意味役割を与えるのに対して、ダケアッテは第2項に「当然帰結する結果」という意味役割を与える。

 

3. 分析

 ダケニとダケアッテは、第2項に与える意味役割が異なるため、文全体の構造が大きく異なる場合も出てくる。たとえば、(1b)が容認可能であったのに対して、(3a)は容認できない。同じく(3c)が容認可能であるのに対して、(3b)は容認できない。

 

(3) a. *前評判のいい映画だけにつまらない。

  b. *前評判のいい映画だけに落選した。

  c. 前評判のいい映画だけに落選して拍子抜けした。

 

(3a)と(1b)の違いは、(3a)ではダケニの第2項が「つまらない」と属性を述べているだけで、あるのに対して、(1b)では「つまらなくて拍子抜けした」とeventで主観的述語の形になっているということである。(3b)と(3c)の違いは、(3b)では第2項が「落選した」とeventであるのに対して、(3c)は「落選して拍子抜けした」とeventで主観的述語の形になっている。 つまり、ダケニを使ったとしても、どんな「結果」でも許されるわけではなく、予想外の結果の場合には、eventで主観的述語で述べられている必要があるのである。ということはつまり、「つまらなくて拍子抜けした」全体がダケニの第2項になっていると考える必要があるので、(1b)の構造は(4)のようになっていることになる。

 

(4)
   

 

 一方、ダケアッテの場合、(5)のようになる。

 

(5) a. *前評判のいい映画だけあってつまらない。

  b. *前評判がいい映画だけあってつまらなくて驚いた。

  c. 前評判がいい映画だけあっておもしろくて驚いた。

 

(6)
   

 

「つまらない」「おもしろい」という部分だけがダケアッテの第2項であるならば、(5)のような容認性の対立が見られて当然である。
 本論文では、(2)の提案と構造との関係を完全に明らかにすることはできなかったが、このような考察にもとづいて、ダケアッテの第2項である「当然帰結する結果」は、(4)のような複合的な構造を受け付けないと考えている。これに対して、ダケニの第2項である「結果」は、(4)のような複合的な構造も可能であり、特にeventで主観的述語である場合には、予想外の結末であっても、「結果」として認められる。
 もちろん、ダケニの場合、必ず(4)のような構造に限られるというわけではない。(7)のような文の場合には、「おもしろい」だけでもダケニの第2項になれるのであるから、(6)のような構造になっている可能性もあると考えるべきであろう。

 

(7)  前評判のいい映画だけにおもしろくて感動した。